【読書記録】古賀史健『さみしい夜のページをめくれ』

2025年5月10日土曜日

読書記録

t f B! P L

 


出会い

この本は見つけたら買おうと思っていた本。散歩の途中で立ち寄った書店で出会って購入しました。1冊目の『さみしい夜にはペンを持て』はお気に入りの本の一つで、2冊目ということでどうだろうかと思ったものの、そんなことを考える必要はありませんでした。1冊目と同じくらい、いえ、それ以上に好きな1冊かもしれません。

スルスルと本の中に入り込み、読み終わった時、深く潜水していた海の中から浮上した気分になりました。そっか、やっぱりそれで良かったんだと勇気づけられたのです。

そして、もしこの本を高校時代に読むことができたなら、当時の私は何を思ったのか、当時の私として手に取ってみたい、そんなことを思いました。

読書記録

ぼくだってぼくを選びなおすことは、できるはずだ。

これは中学3年のタコくんのお話です。

 みんな、どこへ行こうとしているのだろう。

なにをそんなに急いでいるんだろう。

行った先に、なにがあるというんだろう。

同じことを私も高校時代に思っていたことを思い出します。受験勉強にしっかりと向き合っているクラスメイトを見ながら、私はぼんやりと過ごしていました。 朝から夕方までを学校で過ごし、夜は塾に行って、週末は模試だというクラスメイト。放課後だって真剣に勉強していました。そんな彼らの真剣さに憧れを抱きながら、私自身はその先を思い描くことができずに、漂うように過ごしていました。

与えられるのを待ってはいけない

「とっくに答えを出しているのに、自分の答えに自信を持てないでいる。自分ひとりで決めるのが怖くって、自分じゃないだれかに決めてもらおうとしている。違うかい?」

ヒトデの言葉で一番心に残ったのはこの言葉です。過去の私ならきっとビクッとするでしょう。

大事なことを決めるのが苦手で、いつも迷い、誰かに頼り、誰かが決めてくれるのを待っていた私。その癖、ヒトデの指摘のとおり、自分のなかで答えはとっくに出ていることを知っていました。でも選ぶのが怖くて、その一歩が踏み出せないでいることも。

勉強がつまらない、ほんとうの理由

「…そうだよ、ぼくは勉強が嫌いなんじゃない。『なんのためにやっているのかわからないもの』を、なんの説明もなくやらされているのが、いやなんだ。…」

そう、まさにそれです。勉強は嫌いじゃないのです。どうしてそれを学ぶのかが分からないままに、数学も化学も生物もどんどん進んで行く。何のためにやっているのだろう、これが何につながるのだろう。その先が分からないまま、教科書に沿って進んで行くそれらを、いつしか私は受け止めきれなくなっていました。 大学受験で出題されるから。大学に入るためにはそれらを勉強しなければならないことは分かっていても、そして勉強しながらも、それ自体に空虚さを抱いていました。

勉強のプロ

 「そりゃ、学校の先生とか予備校の先生はプロなんだろうけど、それも『教えるプロ』であって『勉強のプロ』ってわけじゃない気がするな。勉強って、みんなアマチュアのままやることなんじゃねえの?」
イカリくんの言葉で一番印象残ったのはこの言葉。学校の先生は勉強することのプロではなくて、教え導くのが仕事でありそのプロとなる人。確かに、その通りにやったかどうかは別として、ノートのとり方や予習、復習の仕方は教えてもらいましたが、「どうやって勉強するか」については教えてもらった記憶があまりありません。でも「どうやって勉強するか」というのはこうすればよいという正解があるものではないですね。みんなアマチュアのまま、時に他者から影響を受けながらも、それぞれが自分の方法を見つけ出すものなのかもしれません。

足元の闇に目を向けず、光を探すこと

「いちばんよくないのは、俯くことだ。顔を上げる。見える景色を変えてやる。深呼吸をして、新鮮な酸素を取り込む――。それだけで案外、光は見つかるものさ。ほんのちいさな光かもしれないけどね」

これこそ 当時の私にかけてあげたかった言葉かもしれません。特に「見える景色を変えてやる」というところ。でも小さな箱みたいな世界で苦しくなっていた自分に対して、外があることを教えてあげても、きっと私は頑なにそこに留まったことでしょう。

もしもこの本を当時の私が読めたなら、自分で外に気づけたのならば、そうでなくても自分で気づけたと思えたならば、もっと遠くへ行けたかもしれない。そんなことを思いました。

カルチベートされたおとなになる

「 勉強というものは、いいものだ。代数や幾何の勉強が、学校を卒業してしまえば、もう何の役にも立たないものだと思っている人もあるようだが、大間違いだ。植物でも、動物でも、物理でも、化学でも、時間のゆるす限り勉強して置かなければならん。日常の生活に直接役に立たないような勉強こそ、将来、君たちの人格を完成させるのだ。何も自分の知識を誇る必要はない。勉強して、それから、けろりと忘れてもいいんだ。覚えるということが大事なのではなくて、大事なのは、カルチベートされるということなんだ

「正義と微笑」太宰治(新潮文庫『パンドラの匣』収録)

終盤に紹介されていた太宰治の小説の一節です。私が「そっか、やっぱりそれで良かったんだ」と思ったのはこの文章を読んだ時でした。

・・・勉強の本質は『自分を耕すこと』にある、ってことになる。

どうして勉強するのだろうか。その答えは自分を耕すこと。

自分が何に興味があって、何を知りたいのか。それを最もよく知っているのは私自身です。高校までは勉強しながらも、勉強すること自体に納得ができずにぼんやりとしていた私も、大学以降、自由に学べるようになると再び学ぶことが好きになりました。

どうも学校で一斉に教わる形、自分のペースで進められないことが苦手だったようです。

「何でそんなことを勉強しているの?」「何でそんな本を読んでいるの?」と聞かれることもしばしばありました。答えは単純で「知りたいから」「興味があるから」、そして「新しいものを身につけてみたいから」。太宰のこの小説の一節とよく似ている気がします。

「カルチベートされること」「自分を耕すこと」

これがすべてだとは思いませんが、勉強すること、学ぶこと、そして知りたいと思うことの一つの源だと思います。私が高校時代に勉強しながらもどこかぼんやりとしていたのは、きっと当時の勉強、特に苦手な理系科目と「自分を耕すこと」が結びついていなかったからなのでしょう。

今の私に贈りたい言葉

 学問なんて、覚えると同時に忘れてしまってもいいものなんだ。けれども、全部忘れてしまっても、その勉強の訓練の底に一つかみの砂金が残っているものだ。これだ。これが貴いのだ。勉強しなければいかん。そうして、その学問を、生活に無理に直接役立てようとあせってはいかん。ゆったりと、真にカルチベートされた人間になれ!  

「正義と微笑」太宰治(新潮文庫『パンドラの匣』収録)

そしてこの本の中から、今の私に一つ言葉を送れるとしたら、引用ではありますがこの言葉を送りたいです。「けれども、全部忘れてしまっても、その勉強の訓練の底に一つかみの砂金が残っているものだ。これだ。これが貴いのだ」

終わりに

学びってのは、学ぶ側が『選ぶもの』

「学びってのは、学ぶ側が『選ぶもの』なんだよ。だからさっき言ってたイカリってお兄ちゃんの態度は全く正しい。だれに学ぶか、なにを学ぶか。それを選ぶのはアンタたちなんだよ」

大人になった今、私が何かを学ぶ理由、或いは始める理由は多くの場合「知りたいから」その一言に尽きます。好奇心で動いているそう言っても過言ではありません。何を学ぶかだってすべて自分で決めることができます。大人になったからこそですが、その学びが今はとても楽しいのです。

でも、もしも昔の私がそういう未来があることを知っていたなら、そして自分で選んで学んでいいことに気づけていたならとそう思わずにはいられない、この本はそんな本でした。

QooQ